2006 トリノオリンピック観戦記              BY 〜 GSSを世界に知らしめた男=天山のぬし 〜
ぬしのトリノレポート後編 = いざ!バルドネッキア 

いざ、バルドネッキアへ

2006年2月12日ああ、ついにこの日が来たのである。海を越えること13,000キロ、かつての同盟国イタリアの地に今日こそは、堂々と日章旗が翻るのである。感無量の朝であった・・・・・目覚まし時計を日本に忘れてきていたぬしは、日本で使っている携帯の目覚し機能にシブク気が付き、昨晩セットしておいたのである。しかし、それも杞憂であった。なぜなら、夜中の2時には、目が覚めていたからである。ちょっと早いが、身支度を整えて出発することにした、ぬしであった。(帰ってからマータに聞いたのだが、ぬしが、出かけてから携帯の目覚ましが鳴り出し、止め方がわからず、大変だったそうである)申し訳ないことをしたものである・・・・・
トリノから駐車場のあるOulxまで、車で1時間半あまり、握るハンドルも軽やかである。駐車場にも無事付いた、料金は20ユーローであった。こんな、じゃりで、どろどろの場所が、かあっ!?とも、思ったが、シャトルバスの料金と考えれば、納得である。車から降りると、一人の男が近付いて来た、聞くとチケットを譲ってほしいと言うのである。ぬしの他にも、車を止めて歩き出している、人達も、そこかしこに、いるのに。しかし皆、家族やアベックである、はは〜ん。もしやぬしが、彼女にふられて1人で来たと見込んでの交渉か!?それなら、チケットも余っているはずである、と考えたのであろう。あまりに鋭い、そやつの考えに一瞬、たじろいだ、ぬしではあったが、まさに大当たりである。ただし、正確にはふられた、のではなく、やむなくぬしの方から断ったのである。間違えてもらっては困るのである!でも、優しいぬしは、男の話を聞いてあげるのであった。なんでも、親族と来たが、チケットが数枚足りずに困っているとの事であった、どうやら、困っていることだけは本当のようである。今日は人の身、明日は我が身、と言う諺がある。武士の情けである・・・・・『いくらや?』『50ユーロー』『はあっ!?』あしもとを、見ているのである。定価90ユーローのチケットを・・・・・やっぱり、ふられた哀れな男と、ぬしを見て交渉をしてきたのである。『むなくそわる〜!』お前には売らんわ!と言い、歩き出そうとしたら、70ユーローになった。時間もないので、了解し、交渉は成立したのであった。(金に替えただけエライ!)その後も、男は寒い中、必死の形相で他の外人と交渉していた。ご苦労なことである・・・・・

キン探

シャトルバスに乗ること、15分。いよいよ、選手村が見えてきた。(翌日、この中でちょっとした、事件を引き起こすなどとは、知る由もなかった、ぬしである。)ここを過ぎれば間もなく会場である。バスを降りるなり、日本から、13,000キロ、遥々運んだ日章旗を旗竿と共に高く掲げ、闊歩するぬしであった。対岸からは、カメラマン達がぬしの、堂々たる行進を望遠カメラで仕留めようと狙っているのがわかる。爽快である。会場の入り口で、キン探(金属探知機)による、セキュリティー検査。テロを警戒しての事であろう、至る所でイタポリ(イタリアの警官)が目を光らせている・・・・・ご苦労なことである。堂々と、キン探をくぐったぬしであった。「ピ〜ンポ〜ン」『 はあっ!??』 イタポリがしきりに旗竿を奪おうとするのである、『なにおっ!無礼な!俺は日本人だ!!』 などと騒いでいたら、ボランティアの通訳が流暢な英語で、貴方の、旗竿に問題があると、言うではないか。ぬしも、遥々日本は、佐賀県の久保旗店で購入した、正式な日本の日章旗3点セット(旗竿2メートル、金のぼんぼり付)で、これが無ければ、応援できん。テロとは無縁と主張するのであった。おまけに、『昨日テレビで観たで、クロカン会場で外人が振っとったや、ないけ〜!』 『あれは、プラスチックの旗竿なのです』、『へっ!?』 ぬしのは、アルミであった・・・・・そうであったのか、自分の無知さ加減を、深く恥じ頭をたれるぬしであった。イタポリも、俺が責任を持って預かるから、と言うことで一件落着したのであった。

旗幟を鮮明にする

日章旗を振れんとなれば、目立つ所に掲げるしかない。しかも、スタート地点に立つ選手から、最もわかりやすい所・・・・・かくして、観客席最上階に陣取り、旗幟を鮮明にした、ぬしであった。もちろん、チケットには座席番号が書いてあるが、通路の最上階は座席がないので、ここを、占領したのであった。エライ!


幸い昨日、S監督とも、連絡が取れていたので、只今、到着した旨電話をするぬしであった。男子HPの結果は、ぬしが今更、ここで説明するまでもない結果であった。残念な事である。しかし、応援席は熱かった。ぬしの所へは、写真を撮らせてくれと色々な国の人達が訪れた。



無論、日本人も。また、ある1人の日本人の青年は、スイスで勤務しているが、ぬしと同じく1人で応援に来たのだと言う。頼もしい限りである・・・・・予選が終わり、ファイナルまで時間がある、しかし、ぬしは、この場を離れるわけにはいかないのである。なぜなら、皆の寄せ書きの日の丸と、この場所を死守する事が絶対なのである。選手もベストを尽くした、応援に来たぬしも、これ位の事は当たり前のことである。(内心は、はらへった、のどか沸いたと、弱気に成りかけていた)其の時、なんと、S監督がぬしの所にすたすたと、階段を登ってくるではないか!『これしかないが、食え』とフルーツポンチを差し入れてくれたのであった。思わず胸が熱くなった・・・・・ファイナルが始まるまで、色々と話をしたが、その内容は今となっては覚えていない・・・・・


謎の中国人

トリノヘの帰路、警察車両が6〜7台まとまって、サイレンを鳴らし青色灯(イタリアは青なのだ)全開で、追い越し車線を180KM、一般車両を蹴散らしながら、走り去っていく。すはっ!テロ事件か?などと、考えていたが。イタポリの集団は、次から次へと来るのである。はは〜ん!山間部のオリンピック会場からの、かえりなのである。きっと、早く家に帰りたいのであろう・・・・・それにしても、180KMの速度で車間わずか車2台程度で6〜7台が一団となって、走っているのである。しかも、一般車両をぶりぶりあおりながら。先頭のポリ車が、急ブレーキでもかけたら、一瞬にしてイタポリの集団は自滅するであろう。恐ろしい走り方をするものである、あるいは、彼ら流の度胸試しなのであろうか・・・・・トリノには着くことが出来た、が、しかし、今日も道に迷って、アパートが見つからないのである。夜8時、かれこれ1時間半は町中を走り回っているぬしであった。『イタタッ』突然ふくらはぎが痙攣を起こし始めた、しかも、両足。(寒い中1日中立ちっぱなしで応援をした、つけが、今頃になって現れたのである)しかも、運転する車はマニュアル車。『えらいこっちゃ!』なんとかせんと、止める場所を探すが、イタリアの夜である、路肩の駐車スペースはほとんど、満車。痛みに耐え場所を探す。もうアパートどころではない。何とか車、0.5台分のスペースを見つけ。車を突っ込んだ。転げるように車外へ出る、暗がりの中、軽装でストレッチをするぬしを、時々、けったいな中国人でも観るような目で、人が通り過ぎる。いつもなら、日本人と言うことを鮮明にするぬしではあるが、この場合、けったいな中国人に成りすますぬしであった・・・・・アパートに着いたのは夜の9時半、心身ともにへとへとであった。

再び、バルドネッキアへ

目覚ましで目が覚めた。カーチャが昨日貸してくれたものであった・・・・・近くのピザ屋で昨晩買った、ピザを持って今日も出発したぬしであった。高速のパーキングで飲み物とチョコレート類も購入した、完璧である。が、しかし今日もハプニングに遭遇するぬしであった・・・・・高速の出口を通り過ぎてしまったのである。仕方がない、次で降りるとそこは、シャトルバスの待機場であった。ボランティアのおやじに駐車場までの道を教えてもらい、引き返すぬしであった。『おやっ!?』山間部の一般道である、いくらなんでも着いてもいい時間である、適当な事をあのおやじは言っただけであった。信じた自分も甘かった。怒り心頭Uターンをして、再び今来た道を引き返すぬし『おやっ!?なんか変?』センターラインが右側にあるではないか?ここイタリアでは、自分の左にないとおかしい。車線を間違えていたのであった、逆走である・・・・・山間部の曲がり道を80KMで・・・・・対向車がいなくて幸いした。恐ろしいことである、やはり、人間はどんな時も冷静でなくてはいけないと、深く反省をするぬしであった。若い選手の諸君も、教訓とするように・・・・・セキュリティーチェックを終え、今日も会場の最上段に日の丸と共に陣を構えるぬしであった。ぬしの右側にはポーランドの応援団ご一行様、約20名。しばらくすると、日本男児2名がぬしの所に、馳せ参じて来た。聞くと、彼らもスイスの勤務地から応援に来たとの事である、『宿は?』と聞くと、トリノのホテルがやっと取れたが15万円との事、昨日はジャンプを応援し、2泊はとても出来ないので今日スイスに帰るのだという。本当にご苦労なことである・・・・・しかも、彼らの席は、オーストラリアの応援団に占拠されてしまっていたのであった。まあ、『ここに座り給え!』同胞の日本人に優しく声をかけるぬしであった。そして、ぬしが持参した日の丸の小旗を貸してあげたのである。頭に2人とも日の丸の鉢巻をし、模範的日本人応援スタイルの2人は、何度かテレビに映っていたはずである。

GSS世界デビュー

スノーボード会場には、観客席に向いて大ビジョンが設置されている。世界に配信されている映像がリアルタイムに見ることが出来るのである。だから、その映像をみて、自分が映っているのがわかった時、皆、張り切って手を振るのである・・・・・それもまた、応援する人々の楽しみでもある。GSSのワッペンが映像に映し出された、との事、ぬしはそれを自身観ていない。しかし、自身が確実に、写っている場面は記憶にある。それは、今井メロが予選で転倒して、HP内で、倒れているシーンの時である。心配であった、日本人として当然の事である。じっとメロを見つめるぬし、ふと、視線を大ビジョンにオークレーのサングラスの奥から向けた時、まさに、ぬしが映し出されているのであった。シブイ!もちろん、手を振るような事はしなかった。

バルドネッキアのぬし

女子HPの予選も終わり、日章旗の元、シブく座っていると、ハンディーカメラを持って1人の日本人が、ぬしの所へ駆け登って来た。昨日、某局レポーターと一緒に取材をしていたカメラマンである。『昨日はどうも』お互い挨拶をかわすのであった。カメラマン君いわく、今会場に着いたばかりなので、選手の家族がどこで応援しているか、教えて欲しいというのである・・・・・心やさしいぬしは、あそこが、山岡選手の応援団、そんでもって、あの当たりが〇〇選手の・・・・・それから、新撰組の羽織を着て、ちょんまげ姿の兄ちゃんも来ているから映像としては面白いかも。などと・・・親切に教えてあげるのであった。エライ!!

2日目にして早くも、ぬしを頼って人が集まってくるのである。

かくして、てんざんのぬし、改めバルドネッキアのぬしの誕生であった。

しかし、日本のメディアと言うのも、もうチョット気の利いた質問を考えてもらいたいものである。今朝も、会場でいち早く日の丸と共に陣を張るぬしに、某局レポーターがやって来て聞くのである、



『ここに、後で何人ぐらいの応援団が来るんですか?』

ぬしを、上野公園の花見の場所取りだとでも思ったのであろうか・・・・・

『我輩1人である!』

『はあっ!?』

では、『どの選手の応援ですか?』

『日本人の応援である!』
『強いて言えばS監督である!』

『はあっ!?』

話が全然かみ合わないのである。あるいは、ぬしの方が変わり者であろうか?確かに、日本人に限らずどの国も、グループでの応援がほとんどであった、しかし、現にぬしの元には、近隣の諸国から1人きり、あるいは2人で、電車を乗り継いで我が同胞を応援に駆け付けて来た、熱き心の日本人がいたのも事実なのである。そう言う事を、果たして日本で報道して下さったのか、知るすべもないぬしであった・・・・・


適中潜入作戦開始

2日間にわたる、ぬしの応援は終わったのである。バルドネッキアと言うこの地に再び来ることは無いはずである。何かこの地の思い出の物・・・・・無いのである、オリンピック公式グッズを売る店は会場内にあるのだが。会場からシャトルバスで駐車場までの途中この村を通り選手村を通過する。なにげに、窓の外を見たぬしは、1軒のポストカードを売っているタバコ屋を見つけたのであった。『しめた!これや』今はイタポリがわんさか居るが、昨日の教訓では5時になったらさっさと帰るはずである。駐車場に着いたぬしは、唯一ある軽食スタンドに、『また来たで〜』サンドとエスプレッソを頼み時間をつぶすぬしであった・・・・・いよいよである、一般道でバルドネッキアを目指す。5時ちょい過ぎ村の入り口付近に着いた、イタポリは既に居ない。『ヨッシャ〜!』と車を進めると、あっさり、セキュリティーポイントで車を止められるのであった。当然のことである。許可証が無いので笑顔でオーケーと素直に従うぬしであった、これで、すごすごと、ぬしは帰ると考えた諸君は、やはりGSSで徹底的に鍛えてもらうしかない・・・・・すかさず、『ポストオフィスに用があるのや車がだめなら、歩いてちょいやからええやろ』と、嘆願するのであった。嘘ではない、ポストオフィスには用がないが、ポストカードには用があるのである。ボランティア警備の兄ちゃんは、『ちょっとなら』と、言ったのであった。『しめた!』パーキングに車を突っ込み、兄ちゃんに手を上げて、スタコラとセキュリティーポイントを、通過したのであった。(4〜5人で警備しているのであるが、こんな事でええんか!!)時々スタッフが怪訝そうに見るが、全日本レプリカモデル(昨シーズンバージョン)でふる装備をしているぬしである。堂々と歩くので、皆『あれっ!?』と思ってもそこまでである、確信が無いのだ。選手の宿泊施設の前を素通りし、またもやセキュリティーポイントである。今度は選手村を出るためのポイントなので、『おうっ!ご苦労さん』と手を上げ堂々と出て行ったぬしであった・・・・・


ついに、つかまる。

ポストカードを選んでいると、1台の車がぬしの背後で止まったのであった。中から2人の兄ちゃんが出て来て、ぬしに質問をする『IDカードは?』『もっとらん!』 『どうしてここに入れた?』『チェックポイントの兄ちゃんがええ言うたんや!』『何をしているのか?』『ポストカードを選んどるんじゃ!』『本当にそれだけか?』 『買ったらすぐ帰るさかい』 15枚ほど買って店の外に出ると、まだ居るではないか?(当然ではあるが)カードを指差してこれだけやと言うと。意外なことに車に乗り込もうとするのである。『ちょっと!まったらんかい!』今度はぬしが呼び止める番であった・・・・・帰りもチェックポイントを2度も通るのである、先ほどは彼らも「おやっ!?」と思っていたはずである。という事は、今度は確実に質問をしてくるであろう、そうなると余計に面倒になる、そう言う事を手短に話し、君達2人はぬしをエスコートし、ぬしが車に乗り込むまで見届けなくては、いかん!と宣言したのであった。『それもそうだ』と2人は歩いて付いて来てくれた。やはり、この作戦は大成功だった。ポイントはノーチェック、選手村ではスタッフを引き連れて堂々と闊歩するぬしに、すれ違った日本人選手がペコッと頭を下げてくれるのであった・・・・・歩きながら兄ちゃん達から、色々と質問を受けた。『ドーム(童夢)は何故、泣いたりしたのだ?』『ドームに聞け!』『日本語でちん〇んとは、どう言う意味なんだ?』(イタリアでは乾杯のとき使う言葉)真剣な顔で聞いてくる。兄ちゃんのものを指差してやったら、目を真ん丸くして驚き、喜んでいた・・・・・その程度のスタッフで幸いした、ぬしであった・・・・・無事、車までエスコートしてくれた。

この日も、トリノ市街で2時間迷ってフラフラになってアパートにたどり着くぬしであった。エライ!!

戦い済んで

その後も、トリノには、16日まで滞在した。正確には16日の朝までである。ロベルトは実に良く色々と気を使ってくれた(当たり前である、この後ぬしは、ロシアに行くのである)ステファニーと、2人で買い物にも出かけた。(お礼に痩せるようにと、体重計をプレゼントしたのであった)マータいつも勉強である。ロベルトの母ちゃんが働く店で、飯もご馳走になった(ユベントスの選手が全員で映っているセピア色の大きな写真が印象的な店であった)本当にありがたいことである・・・・・そして、なんと言ってもカーチャのおかげであった。トリノ最後の夜は、カーチャ達のアパートでマンマの料理をご馳走してくれた。(ぬしの住む同じ階にカーチャ達は住んでいたのである)ちん〇んの話は大うけであった・・・・・特にロベルト、母ちゃんにはうけて、2人ともちん〇んを連呼していた。やはり親子である・・・・・

ドイツを目指して

16日朝、みんなに別れを告げ、トリノを出発したのであった。フランスを抜け、ジュネーブに入り、行けるところまで行くと言うシブイ作戦である。フランスに入ると早速地図を購入する。3.95ユーローであった、ミシュランが発行する地図である。紙は、薄いがその方が折り畳んだりするとき、かえって好都合である。周りの景色があまりにも美しいので高速を降りて、写真を撮りつつ田舎道を走っていたら、あっという間に昼になってしまった。まだ、おフランスである・・・・・『えらいこっちゃ!!』再び高速へ・・・・・午後3時ぬしは、再びスイスにもどったのであった。『明るいうちに宿を探さなあかん!』焦る、ぬしであった。ふと、標識をみると、ローザンヌとある。何と素敵な響きである。

『レマン湖や!』



チャップリン、オードーリヘップバーンなどの名だたる名優が晩年を過ごしたレマン湖である・・・・・吸い込まれるように高速を降り、ローザンヌ目指し宿を探すぬしであった。その町は、やはりレマン湖に面するところにあった。ようやく安そうなモーテルを見付け泊まることとした、ぬしであった・・・・・朝食付き、シャワーのみ、1,100スイスフラン(10,000円程)スイスは物価が高いのである。


記念すべき日

2006年2月17日この日は、何を隠そうぬしの誕生日である。(本当である)世界各地に彼女を持つぬしが、この人生で記念すべき朝を、たった一人、それもレマン湖と言う名の畔で迎えると言うのも、きっと何かの因縁であろう・・・・・レセプションも兼ねる食堂で、簡単に朝食を済ませ(パンとジャム+コーヒー、普通たまごくらいつけないか〜?)一路、ドイツに向けて出発するぬしであった。今日こそは、何としてでも明るいうちにフュッセンという、ドイツの町まで、たどり着かなければならないのである。ルートは昨晩、ホテルの部屋で検討済みである。ベルン、チューリッヒを通ってオーストリアに入り、アルプス山脈を越えれば、最短距離で着くはずであった・・・・・アルプス越えのルートを探しながら高速の出口をチェックしていたつもりであったが、いつの間にかインスブルッグまで、来てしまっていたのである、『ありゃらっ!』時刻は午後3時である。暗くなるうちに宿を決めたいが、明日のことを考えると。出来るだけフュッセンの近くまで行きたいのである。確実なルートはこのまま、高速でミュンヘンを目指し、そこから、一路南下し出来るだけ近ずくことであった(時間は思いっきりかかるが)。ミュンヘンを過ぎ、南下する途中にすっかり辺りは暗くなってしまった。



『えらいこっちゃ!』

最悪のことも考え、途中のスーパーで赤ワイン、サンド、チキン、ピクルス、ミネラルウォーターを買い込んだぬしであった。夜7時である、一軒の民宿があった(ガストである)、明かりはついているが、ドアは硬く千錠され。呼んでも出てくる気配すらない・・・・・さすが、ドイツ人、質実剛健、頑固な国民性である。暗い田舎道を、再びハンドルを握るぬしであった。いよいよ、野宿か・・・・・誕生日の夜を、真っ暗な田舎道を走りながら、自分の運命を呪うぬしであった・・・・・やっぱり、野宿かと諦めかけていたとき、明かりの灯った一軒の民宿を見付けた。レストランは真っ暗だが、入り口の電気はついている。ドアを押したら開いた、『御免!』・・・・・誰もおらん。奥まで入ると小さな食堂で、そこの家族が食事をしていた。一人のババアが、席を立ちぬしのところへ、やってきた。『夜分申し訳ないが、一晩泊めてはもらえぬか』・・・・・英語を理解できないババアであった。ぬしが、ドイツ人とでも思ったのであろうか・・・・・かわって、英語が出来るおばさんが、対応した。一泊34ユーロー(5,100円)朝食込みである。部屋も、バスタブこそないが、シャワー、トイレ付である。



朝食の好みも聞いてくれたが、何でも良いと答えておいた。もう、夜の8時である。先ほどスーパーで買った食べ物を、テレビも無い部屋で食べながら、誕生日の夜を、唯一の話し相手ロシアの愛人、もとい友人に電話を掛けつつ、静かに時は流れるのであった・・・・・ 

作戦開始

翌朝、朝食に部屋を降りていくと既に、コンチネンタルの朝食が準備してあった。『グーテンモルゲン!』挨拶ぐらいその国の言葉を使うのは、礼儀である。思い起こせば大学時代、第2語学の、ぬしの希望はドイツ語であった。しかし、当時、人気語学がドイツ、フランス、スペイン語の順との事で、当時大学寮に入っていたぬしは、先輩から滑り止めに、第三希望は中国語を選びなさいと、尊いご指導を受け、そのように書いたら見事、中国語のクラスへと振り分けられたのであった・・・・・同じ寮生で得意げに「イッヒ・リービ・ディッヒ」などと、得意げにドイツ語を勉強していた同僚が羨ましかった思い出がある。いやいや、受けた授業なのでぬしが、いまだに覚えている中国語といえば、「トゥエプーチ ウォーライ ワンラ」(遅れてすみませんの意味)そう、授業に遅れるたびに使っていた為、今でも鮮明に思い出す唯一の中国語であった。悲しい青春である・・・・・結局、宿泊客はぬし一人だけであったが、宿のおばさんの心温まる朝食に感動し、チェックアウトの際、トリノで買ったオリンピック日の丸ピンバッチをプレゼントしたぬしであった。エライ!!

ノイシュヴァンシュタイン城

ついに来たのである。ドイツロマンティック街道終着点の街フュッセン、『おお〜っ!』「るるぶロマンティック街道・ドイツ」に載っていた教会もある、もちろん、このミッション最大の目的である、ノイシュヴァンシュタイン城も雪山をバックに神々しく聳え立っていた。いいロケーションはないかと、移動しては写真を撮りまくるぬしであった。




畑の中の一本道で車を止めてシブク写真を撮っていたとき、なにやらババアが畑の中をこちらにモゾモゾと向かってやってくる、しかもスキーを履いてである・・・・・そう、クロスカントリーをしているババアであった。朝早くからご苦労なことである。さしずめ日本であったら、朝のジョギングといったところか。しかも、ぬしの車めがけて来るのであった。『おやっ?』よく見ると、コースと道路がクロスする調度その地点にぬしは車を止めていたのであった。慌てて車を移動するぬしであった。目的の城の写真は撮った・・・・・しかし、人間と言うものはもっと近くで見てみたいと思うものである。ぬしも同じである。が、ガイドブックによると城へのアクセスは徒歩20〜40分、ミニバスは30分、馬車は情緒があるが、時間がかかると書いてあった。そんな時間的な余裕は無いのである、今日中にチューリッヒに戻るためには・・・・・城までの上り道、早朝ではあったが観光客もちらほらいた。もし止められたら、知らなかったふりを決め込んでかまわず車のアクセルを踏んだのであった。(良い子は決してまねをしないように)


絶叫マシン

2月19日再びヘルシンキ空港にぬしはいた。そう、そうなのである・・・・・いよいよ、愛人、もとい友人の待つサンクトペテルブルグへと旅立つためである。今回のミッションでヘルシンキを経由したのには深いわけがあった。ここからだと、空路50分でサンクトペテルブルグへ到着出来るのであった。シブイ!しかし、一つだけ不安なことがあった・・・・・

PULKOVO航空!?

聞いたことも無い航空会社である、ロシア!?中古のボーイングが就航しているという。まあ、中古でもあっても腐っていてもボーイングである、50分我慢すればすぐにロシアへ着くのである。搭乗手続きのとき、いきなり手書きで座席番号が変更になった、ロシアでよくあるダブルブッキングであろう・・・・・バスにて駐機場に到着して降りたとたん、目が点になった・・・・・ぬしの目の前にある機体はツポレフ154M。30年は確実にあろうかと言うヴィンテージもの、もろソヴィエト時代の飛行機であった、ロシアの国内線でよく墜落する飛行機である。周りのロシア人は我先にタラップへと群がるのであった。どうして、並べんのやろ!?ぼ〜ぜんと立ち尽くすぬしであった・・・・・変更されたぬしの座席は前方非常口のすぐ隣である。もしものことを考えてのロシア人のサービスと受け止めることとしよう。しかしながら、よく観ると非常口が、ピターッと閉まらずにズレているのである。



エアバスには乗ったことがあるが、このツポレフはエアバスならぬ、中古スクールバス、いや、それ以下である。ロシアおそるべしである。荷物もカーゴで載せるようなことはせず、ぬしの足元からは「ドカン・ドコン」と投げ入れるものすごい音が振動と共に響いてくるのであった。滑走路までの移動中、携帯電話でみんな話しはするし、通路を挟んで窓側のロシアババアは早くもシートを倒して爆睡しているのであった・・・・・

いよいよ離陸である、パーサーの姉ちゃんが一応シートベルトのチェックをして回っていたが、シートを倒して爆睡しているババアには目もくれず(ふつ〜起こすぞ!)、そのくせ、前列の男性が目の前の壁についているテーブルを使っているのだけはとがめて、バタンと閉じさせていたのであった。そしてついに、今までに体験したことの無いような恐ろしい振動と轟音を上げて飛び立つツポレフであった。

あまりの振動に先ほどの男性のテーブルがガタンと音を立てて開いた(よけいに危ないではないか)・・・・・その時、ぬしは生まれて初めて無重力を体験したのであった。

時間にして5秒ほど・・・・・

上昇中に無重力になるということは!?『はてっ!?』

落ちているのである・・・・・そして、再び恐ろしい振動と轟音をとどろかせながら上昇するのであった。これもロシア人パイロットからのサービスなのだろうと、自分を落ち着かせるぬしであった・・・・・かくして、絶叫と共にロシアに向かったのである。

あとがき

ロシアでの甘い甘い5日間の想い出は、諸君のご想像にお任せする事としよう。



荒川静香が金メダルを取った時、ぬしは日本チームの帽子を被って、ホテル1階のバーへと飛んでいったのである。




そのバーには、ぬし好みの姉ちゃんが働いているのである・・・・・ぬし『赤ワインを・・・』姉ちゃん『おめでとう』と言い、ぬしが飲むワインを1本出してくれた。姉ちゃん『グラスは?』ぬし『部屋のグラスで大丈夫』などと会話をしていたら、バーの中のテレビでアメリカを応援していた5〜6人のビールを飲んでいるアメリカ人の一人がぬしを見て低い声で『ジャップ』と言ったのである。(これだから、ぬしはアメリカ嫌いである)負けずに、ロシア語で『なんだ〜文句あんのか〜!』と言ってやったが、バカなアメリカ人は理解できなかった。カウンターにスーッとロシアンマフィアのような人相をした支配人が来て、流暢な英語でぬしに対してというより、バカアメリカ人にも聞こえるように『おめでとう、今夜は日本にとって最高の夜じゃないか、部屋のグラスでなどと言わずにこのワイングラスを持っていきなさい』とピカピカのグラスを差し出すのであった。(多くのロシア人は、アイススケートは、男子シングル、ペアーで金メダルを取っているので、女子シングルでは、アメリカが不正をしてでもロシアには取らせないだろうと言っていたのである)ロシア人のホテルスタッフはバーで、くだを巻くアメリカの客をさぞ苦々しく思っていたことであろう・・・・・

トリノから早くも1年という歳月が過ぎましたが、色あせぬ思い出話を読んで、次のバンクーバー行を密かに決意した読者もいることでしょう!

てんざんのぬしさん、、いや、バルドネッキアのぬしさん!
熱くて楽しいレポートありがとうございました。        GSS代表 松里 啓